1990年〜1993年:
基金創設と顔の見える手作りの支援の模索
|
1994年〜1999年:
ネットワークづくりと継続的支援
(医療研修を中心に)
|
2000年〜 2004年:
被ばく者のニーズの変化に応じた支援へ
|
1990年7月、ヘルシンキでのENDコンベンションに出席していたメンバーが、当時はまだソ連の一共和国だったエストニアの被ばく青年と出会ったことから、注射器一万本を送るための募金の呼びかけとしてスタート。
被ばく者の日本での検診、ベーシックな医薬品の提供から、現地で被ばく者の治療にあたる医師の広島での研修、白血病の子どもへの緊急支援など活動が広がった。
1990年〜1993年(PDF)
|
広島のHICAREの協力のもと、現地で被ばく者の治療にあたる医療関係者の日本での医療研修を中心に活動。
外務省にも働きかけ、外務省の招請によるバルト三国の医師の広島での研修を実現させた。
このほかに、リトアニア、ラトウ゛ィアでは、サナトリウムでの被ばく者の療養支援などにも取り組む。
1994年〜1999年(PDF)
<医療研修参加者の感想(一部)>
--HICAREのHPより
●エストニア
リービ・ローサール(1997年)
リーナ・ウ゛ィータス(1999年)
●ラトビア
マイヤ・エグリーテ(1995年)
タチアナ・ファーブツ(1996年)
クセニア・スミルノウ゛ァ(1999年)
●リトアニア
アウシュラ・ケシュミニエン(1996年)
|
原発事故から15年もの歳月が流れ、バルト三国の社会状況に変化がみられる。
医療研修やサナトリウムでの療養支援を継続する一方で、バルト三国の社会状況の変化や被ばく者グループのニーズの変化に応じた支援を模索。
「被ばく者に寄り添った支援」という原点に立ち返り、10年ぶりに被ばく者自身の来日を企画。リトアニア・チェルノブイリ運動の代表団の訪日を実現した。
2000年〜2004年(PDF)
|